亀成園長 まぁちゃん

2017年5月10日3 分

究極のちまちまご飯

豆がすくすく伸びる頃ですね。グリンピースも空豆も出盛りではないでしょうか。私のスイトピーも何故実を付けないのかというくらいすくすく伸びています。いえ、香りがいいから十分なのですが、こんなに伸びるなら豆を植えておけばよかったかもと少ーし頭をよぎっただけです。

今年のうちの豆ご飯は、これ

けし粒かはたまたゴマ粒か青ノリかと見えるこの粒々は、れっきとした豆ですよ。ピーピー豆といったりカラスノエンドウといったりのどこにでもある草が、鶏たちによる草抜きでは追いつかないくらい繁りまくり、遂に実が弾けんばかりなってしまっているので、これ以上増殖の必要はなかろうとせっせと摘んで、種が飛び散らないようにお腹におさめております。

摘んできた後、洗って筋取りしてさやを空けて豆を出す。そのサイズのなんと小さいことでしょう。弾け飛んでしまうともう見つかりません。小人のごちそうを作る気で、ちまちま淡々ちまちま淡々豆粒を集めていきます。

これだけ小さいと豆ご飯にした味は正直なところよくわからなかったのですが、香りはそれなりを放ってくれるので、豆ご飯を作ったんだなぁという満足感は味わえるものです。実を言えばあまり好きではない豆ご飯なので、楽しい逃げ道とも言えるかな。モノは考えようですからね。

もっと使い道はないかなぁと後日、豆乳から豆腐を蒸す時に入れてみました。なんと杏仁豆腐の香になり、なんとも不思議な変身を遂げてくれました。侮りがたし、ノエンドウ。

野草料理にチャレンジしたり、新茶作りをしていると、とにかく作業はちまちまします。器用ではない手先を思いっきり使って少しずつ少しずつ工程を進めていきます。面倒で気が遠くなりそうかと思えば、案外嫌でもないのです。

細かく手を動かしているときだけに感じる心地よさというのが確かにあるようです。そう長くは続かないけれど、集中している時に頭がしーんとしているのは、静かで、澄んでいて、人里離れた森にでもいるような気になれます。もっと大雑把に調理をしていた頃は、手縫いで小物を作ったり、切り絵をしてみたり、オトナの塗り絵に手を出してみることもありました。ほんの小さな作品たちでしたが、ちまちまと手を動かして集中する時間こそが何より求めていたものではないかと今になって気付きます。小さな頃はビーズ細工にハマったり、折り紙で何十個も同じものを作ったり、作るものがないときはひたすら色鉛筆を削ったり、消しゴムのカスを丸めたり、とにかく何か手をちまちま動かして、ざわざわする心を静めようとしていたような気がします。

Hand, Heart, Headという流れを聞いたことがあります。とかく頭脳を鍛えることに主眼がいきがちな現代ですが、人間は手を使うことで心が動き、それによってやっと頭が動きます。先ずは動く、そしてありのままを感じる。考えるのはその後でいい。人一倍考えることが大好きな頭でっかちな私のような者でも、自分の行動を見直すと、いつもちまちま作業を求めていました。根っから細かいことが好きなわけでも作品に情熱を燃やしているわけでもないので、長続きしないのは困ったところですが、積み上げるとかなりのちまちまっぷりです。頭で覚えようとしたことはすぐに忘れてしまいますが、手も心も使って得たものはすぐに取り戻すことができます。

心身のバランスを取り戻すためのちまちまご飯。巻き込まれてみるのはいかがでしょう。

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