田舎暮らしをしていると物をもらうことが多くなるというのは確かにあります。子供の少ない地域に子供をたくさん連れて移り住んだので、余り物をよかったらと訪れて下さる方が結構います。採れすぎた野菜、法事で余ったお菓子、安くて買い過ぎた果物、押入れから出てきた子供服などなど、ちょうど必要としていながら買いに行けていなかった物が回ってくることもたびたびで、巡り合わせに感謝するばかりです。幸か不幸か母親(私です)の意地汚さを受け継いだ子供たちは食べ物を頂いて困るなんてことは一切なく、いつでも大喜びです。すっきりさっぱり平らげて、次のエネルギーにしちゃう様は見事と言ってよく、これでもかと頂いた柿もミカンも大根も、どこへ消えたのでしょうね。モノにしてみれば、留まるより流れて行きたい。我が家を通過すると確実なのかな、と都合よく受け止めてみたりもしますよ。
今日も散歩の途中に近くの畑で、エンドウ豆が見事に成っているのに出くわしました。いいなぁ、こんなに立派で、プリプリやなぁなんて見惚れておりました。たまたま出てきた奥さんが、昨日採れすぎて困ってたの、と袋いっぱい下さったではありませんか。振り返るとわざとらしいかもしれませんか、正直にそんなつもりはなかったのです。ちょっとうっとりしただけなんです。それでも袋いっぱいのスナップエンドウ(スナックエンドウかな)を頂いていいなんて、五月の恵みに感謝するばかりです。
豆といえばこのところカラスのエンドウばかりを一所懸命集めていた息子が喜んだのなんの。「野エンドウよりめっちゃでかいな」と目を輝かせておりました。そりゃそうでしょうね。帰ってすぐにゆがいて塩をつけて味見したら、その甘み、旨味にまた感激でした。「野エンドウよりめっちゃ美味しいな。」そりゃそうでしょうともね。実際、新鮮なお豆はひと味もふた味も違いました。野エンドウと比べてだけでなく、今まで食べてきたどのエンドウよりも優しく力強い味だったのですよ。
頂くばかりで恐縮だ、早く返せるようにならねばと旦那さんは言います。そのためにも日々努力を重ねております。もちろん私もその気持ちがないわけでなく、頂いて当然などとはちっとも考えてもいないのですが、不思議とそんなに焦ってはいないのです。あぁ、なんてありがたいとじっくり受け止めているのです、今は。何かを頂いたらすぐにお返しする、という関係も、お互いに引っ掛かりがなくていいのかもしれませんが、逆に言えばすぐに終わってしまう関係となりかねません。貸借りのない関係性はしがらみがなく清らかなのかもしれませんが、私はいっぱい貸してもらっていていいと考えているのです。
モノをもらう、話を聞かせてもらう、技を教えてもらう、目をかけてもらう。先人たちのありがたい恵みをいっぱいいっぱい受け止めるのは、次につないでいくことを含んでいます。縁あってこの地に来た私たちが、沢山の恵みのおかげあって、この地で生き続けていくことが出来れば、きっと恩返しができるはずです。自家消費の作物もまだまだの新米ですが、50年先に豊かであるよう今の感謝を忘れずにいたいです。借りは返す、その用意ができたら必ず。ネパールだったかな、お土産を持って行ったら、12年も経ってお返しをもらったという話を聞いたことがあります。個人のやり取りにしては壮大過ぎではと流石にあきれますが、世帯間、世代間、地域間では気長に温かくていいなと思います。
子供が子供というだけで何かとよくもらうのは、そこに未来につながる糸が見えるからです。一個の柿、一本のバナナ、一枚のおせんべいは瞬く間に消えはするけれど、もしかすると未来に柿ワインを作るかもしれない。フェアトレードのバナナ業をするかもしれない。宇宙におせんべいを持って行くかもしれない。受け止めたものは大地に水が染み込むように記憶の深くに染み込んで、やがて湧き出すのかもしれません。
差し当たっては来季はスナックエンドウを植えましょう。新鮮な感激が広がっていきますように。そして50年先には経験と知恵の豊かな気前のいいばあちゃんでありますように。
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